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【全文】長崎 被爆者代表 三瀬清一朗さん「平和への誓い」

11時2分、止まったままの柱時計を見るたびに79年前の悪夢がよぎります。

当時、私は10歳。
夏休み中で、午前中に警報が解除され、母と祖母は洗濯と炊事を始めていました。

私は家にあったオルガンで、B29の爆音をまねして、ブーンブーンブーンと音を出して遊んでいました。

それを聞いていた祖母が飛んできて「敵機が来たと間違われるから止めなさい」と叱られ、しぶしぶオルガンの蓋を閉めて立ち上がろうとした時、ピカッとまぶしい閃光(せんこう)が走りました。

とっさに学校で教わったとおり、指で両耳・両目を押さえ、オルガンの前に伏せました。

次の瞬間、ドーンと鈍い音が響き、続いて、爆風が家の中を吹き抜けるのがわかりました。

その間、恐怖におびえながらじっと堪えていました。

やがて静かになったので、恐る恐る頭を上げて辺りを見回すと、惨憺(さんたん)たるありさまで、太陽が落ちてきたと思いあぜんとしていると、洗濯していた母が狂ったように子どもたちを捜し始めました。

我が家は8人家族、幸いにも全員無傷でした。

数日かけて家の中を片づけ、当時通っていた伊良林国民学校の事が気になり、友人と様子を見に行きました。

目に入ったのは、「水を下さい、水を飲ませて下さい」と弱り切った声で懇願している、男女の区別もつかないほど血だらけの人や上半身裸で傷を負った人でした。

体育館に運び込まれた人たちは、誰かが手当てをしたり水を飲ませたりすることもなく、ただ寝かされているだけで、体育館の中は夏の暑さと漂う異臭で地獄のような状態でした。

先ほどまで苦しさにわめいていた人が急に静かになったと思ったら、既に息絶えており、大人が頭と足を抱えて校庭に運び出し、穴を掘り、板の上に遺体を載せて焼いていきました。

自分の学校が死体処理場に変わった光景は、今でも忘れることができません。

あれから79年、私たち被爆者は健康不安におびえながら、核廃絶を訴えて来ました。

しかしながら、海外に目を向けると、ウクライナやパレスチナなど戦火は収まるばかりか泥沼化しており、多くの子どもたちが命を落としています。

この悲しい現実を目の当たりにして、戦争の愚かさから目をそらすことはできません。

平和の尊さを痛感する毎日です。

現在地球上には推定1万2120発の核弾頭が存在すると言われており、世界においては核兵器の使用が示唆されるなど、一触即発の緊張が続いています。

万一使用されるとこの地球がとんでもない状態になる可能性さえあります。

本日ご列席の岸田内閣総理大臣へ申し上げます。

子どもや孫たちが安心して過ごせる青い地球を残していくために、被爆国日本こそが、核廃絶を世界中の最重要課題として、真摯(しんし)に向き合うことを願ってやみません。

私は、2015年から長崎平和推進協会の語り部として、長崎を訪れる修学旅行生や次世代を担う若者たちに核兵器の恐怖を語り続けており、2023年から英語による活動も始めました。

平和とは何かを皆さんと一緒に考え、可能なかぎり続けてまいる所存です。

最後に ”peace is a world heritage shared by all humankind”、平和は人類共有の世界遺産であると申し上げ、亡き御霊へささげる平和への誓いの言葉といたします。

2024年(令和6年)8月9日被爆者代表 三瀬清一朗

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